※かなり長い内容になるのでお許しを。
様々な謎が散りばめられた映画『シン・ゴジラ』
その中でも最も気になるのは、“牧教授”という人物の正体は一体何者で、彼は何が目的だったのか?何をしたのか?の部分ではないでしょうか。
そこでこの謎の真相について、「折り紙の折鶴」、「春と修羅」、「ラストの尻尾の骨」など散りばめられたピースを絡めらがら考察していきます。
※本記事は、牧教授が人間に復讐する“悪い奴パターン”の考察となります。これと対となる、牧教授が人類を救おうとした”良い奴パターン”の考察は以下となります。↓
ネタバレ考察『シン・ゴジラ』のストーリーを暴く ~人類を救おうとした牧教授~
※なおこの牧教授の話は正直色々な解釈ができますので、以降で書く考察が全てとは思っていません。あくまで可能性の一つとしてご観覧ください。
1.シンゴジラの正体 誕生~出現までの流れ 【牧教授・折鶴・春と修羅・ラストの尻尾の骨】
まずは前段として、「シンゴジラの誕生までの流れ」と「シンゴジラの正体は何か」の部分を簡単にまとめます。
シン・ゴジラ誕生~東京湾出現までの流れについては、以下のように考察します。
【シンゴジラ誕生~東京湾出現までの流れ】
①”諸外国”が放射性廃棄物を海底に投機。
②海底にいた何らかの生物が放射性廃棄物を食べ、シンゴジラ幼体(第0形態)に。
③米国エネルギー省(DOE)がシンゴジラ幼体の存在に気づき、秘密裏に調査・研究をはじめる。
④牧教授の妻がなんらかの理由で放射能に汚染され、妻を救うため放射能無効化の研究を始める。
⑤牧教授の妻がおそらく死亡。これにより牧教授は政府に恨みを持つ。
⑥牧教授はなんらかのツテで米国エネルギー省(DOE)に渡り、幼体の調査・研究も始める。
⑦米国エネルギー省(DOE)もしくは牧教授が、シンゴジラ幼体が放射能無効化能力(半減能力)を持つ事を発見する。
⑧牧教授はシンゴジラ幼体を利用し「好きなようにする」ことを決意。
⑨牧教授は、シンゴジラの幼体のいる東京湾に。(or 東京湾に幼体を呼び寄せる or幼体を持参して東京湾に)
⑩牧教授は、東京湾にて幼体になんらかの作用を与えるor自分を食べさせ取り込まれる。(なぜ東京湾なのか?については、初代ゴジラのラストへのオマージュ?)
⑪牧教授の働きにより、シンゴジラは急激に進化し第一形態に。そして冒頭の尻尾のシーンに繋がる。
⑫残されたクルーザーには、「私は好きなようにした、君たちも好きなようにしろ」のメッセージと共に、一羽の「折鶴」と詩集『春と修羅』が置かれていた。
大まかな流れは以上の様にイメージしています。
続いてシンゴジラの正体について。
【シンゴジラの正体】
ネットなどでは、シンゴジラの正体=牧教授と噂もされていますが、牧教授がどうこうするずっと前にシンゴジラは放射性廃棄物投機により既に”幼体”として誕生していたと推測します。
それに牧教授がなんらかの作用を与えた事で、ようやくゴジラが本格的な進化を始めてしまったのが正確な流れと理解しています。
なおシンゴジラの一番始まりとなっている原点の生物の正体は、海中にいた、微生物・魚類・両生類いずれかに分類される生物であるかと思います。
それが放射性廃棄物に影響され、幼体(第0形態)になったのかと。陸上に上がった第2形態の、大きな目、発達していない手、大きな鰓(エラ)といった特徴から、第2形態の時点で魚類か両生類と判断できますので、鳥類や爬虫類、哺乳類(人間も含む)などに分類される生物が幼体(第0形態)となったとは考え難いです。
シンゴジラ第2形態のデザインベースとなったとパンフレット上で記載されている深海ザメ(魚類)の一種「ラブカ」↓
庵野監督からデザインは「ラブカに似せてくれ」と指示があったとのこと。断言はできませんが、一番初めの原点となっている生物はこのラブカの可能性が高いです。
2.牧教授の目的は?政府への復讐説が濃厚か
さて、本題となりますが牧教授はなぜゴジラを利用したのか。その目的はなにかについて。
ネット上でよく言われているのが「妻を見捨てた政府へ恨みを晴らすため、復讐のため」説です。劇中でも「牧教授は政府に恨みを持っている」と述べられていましたので、素直に見れば納得の説かと。
ですが私は当初この説をミスリードだと思っていました。理由としては、何処の馬の骨だか分からないおっさんの政府への復讐という、一個人の感情をゴジラに絡めてしまうと、今回のシン・ゴジラというキャラクターが途端にチープになってしまうからです。
特撮好きでゴジラの意味をよく解っているであろう庵野監督が、ゴジラの持つ神秘的なキャラクターにそんな泥を塗るとは考え難いです。それにいくら恨みがあったとしても、普通に考えてゴジラを利用して復讐というのはやはり非現実かと。
とはいうものの、よくよく考えてみるとこの説も一周回って意外と濃厚に思えてきました。
理由としては、冒頭シーンのクルーザーに置かれた一羽の折り紙で作られた「折鶴」と詩集『春と修羅』、この2つのヒントが関係してきます。
「折鶴」と、「春の修羅」には次の様な意味が込められていたと考察します。
折鶴(おりづる)の意味するもの
「折鶴」について、広島平和記念公園の「原爆の子の像」のモデルとなっている佐々木禎子さんが、広島原爆で被爆し亡くなる前までの間、病状を回復したいと願い折り紙で鶴を千羽折ったという非常に有名なエピソードがあります。
クルーザーに置かれた折鶴がこのエピソードを指すものであれば、折鶴は牧教授のなんとしても妻の病状を回復させたかった願望の強さ、そしてそれが出来なかった事での絶望の強さ、そしてそれによる恨みの強さを意味していると考えます。
さらに、途中で広島平和記念公園(原爆ドーム)の不自然なカットもありましたが、あれも単にカヨコとカヨコ祖母の原爆批判というだけでなく、この牧教授×折鶴にも繋がってくるのかもしれません。
『春と修羅』が意味するもの
『春と修羅』は、宮沢賢治の制作した口語詩集本です。
ただし70編もの多様な詩から成る詩集のため、この詩集本全体が何を意味しているかは一括りに出来ません。
このため率直にタイトルの”修羅”にスポットを当てると、「牧教授は妻の病状を回復させられず、その怒りや苦しさから修羅道に堕ち、政府へ恨みを晴らすこととした」と考えられます。
※修羅とは・・・「修羅」とは、 醜い争いや果てしのない闘い、また激しい感情の表れなどのたとえです。また、強い意志・目的・恨み・後悔などから人の道を外れてまでも我が道を突き進む様を指す事もあります。
※補足
『春と修羅』については、下記のブログが、内容の解釈を分かり易くまとめています。
宮沢賢治の詩・春と修羅・を俺なりに解説
http://blogs.yahoo.co.jp/knsttkyk/10263170.html
なお春と修羅は、Kindle版電子書籍にて現在”無料”で提供されています↓
この折り紙の「折鶴」と「春と修羅」は明らかに不自然に置かれていましたので、ヒントである可能性は高いです。いくらへそ曲がりな庵野監督と言えども。『春と修羅』については資料協力としてエンドロールにも表記ありましたしたので、かなり事前取材したのかと。
さて、この「折鶴」×「春と修羅」の2つのヒントから、牧教授は妻の病状を治せなかった無念の強さから、修羅道に堕ちたと仮説します。
その上で”修羅道”の名に恥じない、牧教授の最悪の復讐計画を以降で考察していきます。
3.牧教授の復讐プランA:核攻撃の誘発
まず牧教授により当初計画された”プランA”として考えられるのは、核攻撃を誘発し、核の火により東京もろとも政府を墜落させるパターン。
【牧教授の復讐プランA】
①牧教授は、シンゴジラの防御力や耐久性の高さを事前に推測しており、通常兵器でどうにもならず必然的に人類が核兵器攻撃に移ることを予測していた。(もしくは米国がゴジラ研究に関与していたのであれば、証拠隠滅のため核攻撃に移る事を予測した。)
②このため牧教授は、シンゴジラによる破壊活動で政府に復讐するのではなく、あくまで囮として使う事にした。(そもそもゴジラを意図的に細かく操ることは出来なかった可能性が高い、また劇中でも分かる通りゴジラに自ら攻撃意志はなく牧教授はこの習性からも”つかえない”と判断した)
③そしてシンゴジラに向けた核攻撃を促し、核攻撃による政府への復讐を計画した。
④牧教授はゴジラになんらかの作用を与え、上陸後は東京を目指すように促した。もしくは牧教授はまだ何処かで生存しており、シンゴジラを東京へなんらかの方法で呼び寄せた。
放射熱線を乱射して暴れても、頑なに位置は変えず一点に留まり、定位置で砲台化していた最後の東京駅付近の位置が、シンゴジラの最終目的地点。つまり核攻撃の誘導位置。
⑤予定どおりゴジラは猛進し東京駅付近に移動。そこに目掛けて核が発射されれば、東京は火の海に。政府は完全に墜落し、牧教授の政府への恨みは晴らされる。
⑥さらに、仮に核攻撃が行われなくても、ゴジラはいずれ放っておけばメルトダウン(炉心溶融)を起こし東京は火の海に。(劇中ではメルトダウンについて触れられてはいないが、シンゴジラの体表が赤いのは、過去のバーニングゴジラ同様にメルトダウンが近いことの意味として捉えられる)
⑦だが同時に、牧教授は血液凝固剤のヒントを与え、人間側にもう一つの選択肢を与えた。「君たちも好きなようにしろ」と。
⑧結果、血液凝固剤が完成しヤシオリ作戦により核攻撃は中止。凍結化によりメルトダウンの危機も消える。よってこのプランAは白紙になり、後述するプランBに移行。
当初計画されたプランAとして、この様に仮説します。
もしこの通りであれば、放射能によって苦しめられた妻の恨みを、同じ人間が発射した放射能(核)で無関係な都民多くの命と共に報復させる、まさに”修羅”の名ににふさわしい計画かと。
4.牧教授の復讐プランB:第5形態による破壊行為
続いてプランAが白紙になった際用の代替案プランBについて考察します。
【牧教授の復讐プランB】
①今回のシンゴジラの動物的で本能的な習性を見ても分かるとおり、知能のある人間のように指示を与え牧教授の思惑通りに操り利用する事は難しい。また、ゴジラが自由に暴れて起こる目的や計画性のない無秩序な破壊は”修羅”というよりも、ただの”狂気”になってしまう。
※補足
ゴジラが東京に向かった理由は未だに謎ですが、以前「背びれが生体レーダー(フェーズドアレイレーダー)の役割していて、電波密集地の東京に引き寄せれている」という解釈コメントを頂きました。私はこれが一番しっくりきています。
②そこで牧教授は、ゴジラに知能を与え最終的に人間に近い生物のゴジラ人間(第5形態)に進化させる計画を立てた。牧教授はまだ何処かで生存しており、ゴジラがゴジラ人間に進化した後、知能をもったゴジラ人間を外部から何らかの方法で操ろうとした。(もしくはファンタジーな考え方になりますが、牧教授自身がゴジラに取り込まれる事で内からゴジラ人間を操ろうとした。牧教授の意志がDNAで継承される的な)
③そして事前にプランBを実行するための血液凝固剤のヒントを残しておく。
④劇中でヤシオリ作戦が成功し、シンゴジラ(第4形態)は凍結状態に。これをキーにもともと計画されていたプランBが発動。凍結された事により、シンゴジラの体内でゴジラ人間(第5形態)への変化が始まる。
⑥一定時間経過後、成長した数体のゴジラ人間がシンゴジラの尻尾の骨部分から顔を出す。これが問題のエンドロール前の意味深なラストシーンの正体。
⑦この後、無数のゴジラ人間が順次シンゴジラの尻尾から巣立っていく。そして彼らは牧教授に操られ、牧教授の明確な意思の下に破壊活動を行い日本や政府を墜落させる。そしていずれは、各国に飛来していき世界を破滅に導く。これが劇中でも示唆されていた「郡体化し各国に飛来してい最終形態(第5形態)」の正体。
プランBとして以上のような流れを考察します。
ゴジラもまた放射能の被害者であり、そしてゴジラを作ったのは放射性物質を投機した人間です。そんな人類自らの生き写しの様な存在のゴジラ人間で、人類への復讐を行い妻の恨みを晴らす、こちらもまさしく修羅の名にふさわしい計画かと思います。
なお、この仮説だと牧教授がどのように第5形態に進化させたか、その後どのようにゴジラを操ったか、の部分を突っ込まれると辛いのですが、そこはシンゴジラの人知を超えた特性を上手く利用したとのことでお許しください。
以上、「プランA:核攻撃の誘発」と「プランB:第5形態による破壊行為」の2段構えで、牧教授は政府への復讐を行ったのではないかと考察します。
この場合、プランA、プランBどちらを選んでも絶望的な結末しかなく、余りにも極悪非道で血も涙もない「君たちも好きなようにしろ」の選択肢となります。
自分で書いておいて難ですが牧教授がいくら政府に恨みを持っていても、まともな人間であればここまでの恐ろしい復讐劇を計画するとは思えません。
とはいえ、「折鶴」と「春と修羅」が、もし途方もない絶望と修羅の道を表していると仮定すれば、このようなまさしく人の道を外れた恐るべき復讐劇を牧教授が計画したとも考えられるのではないでしょうか。
最愛の妻が放射能で苦しみ死んでいく姿は、それほどまで牧教授を変えてしまったのかもしれません。
こちらは裏話満載の公式の設定資料集ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ(マニア向け)↓
5.牧教授というキャラクターの正体は、”核批判”の比喩・暗喩かもしれない
最後に、この仮説でもやはり『シン・ゴジラ』という映画が牧教授”いち個人”の復讐劇となり、どうしてもチープに感じてしまいますよね。
いくら牧教授が放射能被害により辛い思いをしていたからといっても、個人の感情でゴジラが動かされてしまうと、ゴジラ映画としては失格な気がします。そう思う方は私以外にも多いのではないでしょうか。
さてこの点ですが、
牧教授というキャラクター=これまでに放射能被害にあった方すべてを比喩、暗喩し連想させているという考え方はどうでしょうか。
「太平洋戦争」での原爆、その後の度重なる核兵器実験、さらには「チェルノブイリ原発事故」や「福島原発事故」などにより、放射能被害に見舞われ、苦しみどうする事も出来ずに亡くなっていった方は、これまでに世界中で多々いるでしょう。
そういった放射能被害で死んでいた方、またその親族の膨大な無念や怒りを、そしてその犠牲を忘れたかと言わんばかりにそれでも尚続く核開発や核の乱用に対する無念や怒りを、この牧教授というキャラクターで連想させようとしたのではないでしょうか。
それは単に人間だけでなく、放射能被害を受けた地球、植物、動物、そしてゴジラも含まれるのかもしれません。
これは初代ゴジラも掲げていたテーマ。もしこうであれば、庵野監督も望んでいた初代ゴジラへの原点回帰が十分に達成されている気がします。
牧教授の人物を映すシーンが全くなかったのも(写真はちょろっとでましたが)、牧教授は一人のキャラクターとしてではなく、観念としてみて欲しいといった意味があったのかもしれません。
追記:牧教授のもう一つの解釈 ~世界の幸せのため、世界を壊す~
コメントにて、「春と修羅」の著者でもある”宮沢賢治”という人物について貴重な意見を頂きました。
宮沢賢治の世界観は独特ですがそれは彼の拠り所としていた法華経と溺愛していた妹を亡くしたことによる独自の幸福論によるものです
その幸福論とは「世界全体が幸福にならないうちには個人の幸福はありえない」といったものです賢治の「世界全体が幸福にならないうちには個人の幸福はありえない」という思想から考察してみると、もしかすると溺愛していた妻を亡くした博士(ここが賢治に重なるのが気になります)は自国の利益を追い求める米国や、世界の仕組みが嫌になったんじゃないでしょうか
また博士の核の無害化も核のせいで妻を亡くす(個人の不幸)
↓
どうしたらこのような不幸が無くなるか(個人の幸福の追求)
↓
放射能を無害化する(世界全体の幸福の追求)
↓
ゴジラを造り上げると個人の幸福は世界全体が幸福にならない限り訪れないと博士も考えたのでは無いのでしょうか?そうして自分と賢治を重ね、最後は春と修羅を残してこの世を去ったのでは無いのでしょうか?
↑匿名さんから頂きましたコメント
宮沢賢治という人物は、妹の死の絶望から「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という独自の世界観を持っていたようです。
これについては、宮沢賢治の『農民芸術概論』の序論でも述べられています。
宮沢賢治の『農民芸術概論』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html
そこで、「折鶴」、「春と修羅」に加えて、この著者である「宮沢賢治の思想」もヒントであったとして考えると、もう一つ以下の様な牧教授の計画が考察できます。(一部頂いたコメントの考察も混ぜさせて頂きます。)
もう一つの牧教授の仮説 幸せのためにすべてを破壊する
①牧教授は、なんとしても妻の病状を回復させたかったが、それが出来ずに妻は死亡。深く絶望した。(折鶴の部分)
②牧教授は、自らの心の絶望を埋めるために、放射能被害無効化の研究に没頭し、世界全体の幸福を追求した。(宮沢賢治の思想の部分)
③牧教授は、放射能被害をこの世から完全に消すためには、放射能無効化の技術うんぬんより以前に、核を乱用する人類そのものがこの世から消えるべきと判断した。(「春と修羅」の”修羅”の部分)
④そこでシンゴジラを利用し、政府を、日本を、アメリカを、そして全世界を破壊し、この世から核を乱用するであろう人間を全て消し去ることにした。それにより放射能被害のない、幸せな世界に導こうとした。(「春と修羅」の”修羅”の部分)
⑤そして上のプランAもしくはプランBのような方法を考え、破壊活動へ。
宮沢賢治の思想もヒントであったのならば、この様な屈折した正義による破壊行動を計画していたとも考えられそうです。
庵野監督と関わり深い『風の谷のナウシカ(漫画版)』や『エヴァンゲリオン』、『巨神兵、東京に現る』でも、このような再生する為に一度全てを破壊する描写がありますし(人類〇〇計画的な)、庵野監督自身もこういう話が好きそうなので、意外とありえる話かもしれません。
これはこれで夢も希望も無い結末ですが。
「スクラップ&ビルド」ももしかしてここに?
※画像はイメージです
まとめ
もちろん牧教授は修羅道になど堕ちておらず、むしろ日本や政府を助けるために東京湾に向かい、ゴジラになんらかの手段を取ったとも考えられます。
今回はあくまで折鶴と春と修羅にスポットをあて、「牧教授が修羅として取る最悪の行動は何か」という意味で考察させて頂きました。
それにしても、この牧教授が何をしたかで、『シン・ゴジラ』という作品の観方がかなり変わってしまいますよね。ここは流石に庵野監督と言えども投げっぱなしにするのは良くなかったのではないでしょうか。
いずれ公式資料集や続編で明かされるのかもしれませんが、早めにこのモヤモヤをはっきりさせたいです。これで「実は何の意味もありませんよ、お馬鹿さん」だったらどうしましょう(笑)
また、この話題を考察する上でのヒントをコメント覧で頂きました”ゆばさん”、誠にありがとうございました。
関連記事
本記事は、牧教授が人間に復讐する”悪い奴パターン”の考察として考察しました。
これと対となる、牧教授が人類を救おうとした”いい奴パターン”の考察は以下となります。↓
ネタバレ考察『シン・ゴジラ』のストーリーを暴く ~人類を救おうとした牧教授~
なおこちらはシンゴジラ関係なしに、私のゴジラへの想いを語ったもの↓
「ゴジラ」とは何なのか、なぜ人はこの怪獣に惹かれるのか
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春と修羅の作者である宮澤賢治には妹がいましたが幼くして病気で亡くなっています。
それを書いたのが、春と修羅の冒頭にある「永訣の朝」という詩ですね。
おそらくは末期の水になるもののために妹が「雨雪(みぞれ)をとってきてほしい」という台詞が何度も繰り返しています。
ネットにも全文が載っていると思いますので、ご参考までに。
コメントありがとうございます。
「永訣の朝」の詩は、とても物悲しい印象を受けました。そして、今回の牧教授の境遇に合うような感じがしました。
この詩で述べられている通り、牧教授も妻を失う事に大きな苦しみを感じていたのかもしれません。
この機会に春と修羅を読み進めてみます。
考察読みました。
以下は、自分なりの考察です。ご参考まで。
街の大破シーンや、放射能問題など東日本大震災とシン・ゴジラがリンクしていると推察する方は多いですが、これをさらに発展させます。
春と修羅→春は3月11日、修羅は日本を襲った震災
折り鶴→被災者への祈り
これは、牧教授というよりかは、庵野監督からのメッセージと捉えます。
そして、シン・ゴジラが日本に出現した理由は、かなりブラックですが、放射性物質を食べて進化したシン・ゴジラが、さらなる放射性物質を求めて日本に来たということです。
つまり、汚染された日本近海で、汚染された被災者の死骸を食べたのではという解釈です。
そして、ラストシーンの尻尾の人型のナニカはその食べられた被災者の亡骸です。
しかしこれではなぜ東京なのか、なぜ上陸したのかが説明不可なのですが。
以上です。
コメントありがとございます。
そこまでは考えつきませんでした。
たしかにブラックですがそれもあり得そうですね。
牧教授の妻の放射能汚染というのも、東日本大震災での例の原発事故の影響かもしれません。
それであれば、牧教授の話も回収できますしね。
なぜ東京を目指したかは、オカルト的に考えれば色々ありそうです。
ただ、それだと今回のシンゴジラで、東日本大震災の比重が多くなり過ぎる気がするので、少しそこが疑問です。
今の時代的に、従来の核批判よりも大震災のテーマを採ったとも考えられますが。
宮沢賢治の世界観は独特ですがそれは彼の拠り所としていた法華経と溺愛していた妹を亡くしたことによる独自の幸福論によるものです
その幸福論とは「世界全体が幸福にならないうちには個人の幸福はありえない」といったものです
ですので「春と修羅」のタイトルから考察するより彼の思想から考察する方がより正しい解釈が出来ると思います(なぜならタイトルだけならそれこそダヴィンチコードの続編の天使と悪魔を置いていても今の解釈が成り立ちかねないですけど、中身はシン・ゴジラとずれますよね)
賢治の「世界全体が幸福にならないうちには個人の幸福はありえない」という思想から考察してみると、もしかすると溺愛していた妻を亡くした博士(ここが賢治に重なるのが気になります)は自国の利益を追い求める米国や、世界の仕組みが嫌になったんじゃないでしょうか
それこそ映画の後半の国連の動きとか加盟国の利己心からなるものこそ嫌っていたかもしれません
また博士の核の無害化も
核のせいで妻を亡くす(個人の不幸)
↓
どうしたらこのような不幸が無くなるか(個人の幸福の追求)
↓
放射能を無害化する(世界全体の幸福の追求)
↓
ゴジラを造り上げる
と個人の幸福は世界全体が幸福にならない限り訪れないと博士も考えたのでは無いのでしょうか?そうして自分と賢治を重ね、最後は春と修羅を残してこの世を去ったのでは無いのでしょうか?
コメントありがとうございます。
私は宮沢賢治について詳しくないため、大変勉強になりました。
そして、おっしゃっている内容も十分あり得るかと思います。とても納得しました。
今回の考察は”修羅”をテーマに最悪な方向で考えてしまいましたが、牧教授はそういった善(結果的に善というのが正しいでしょうか)の方向で何かをしようとしていた人の方がしっくりします。春と修羅=宮沢賢治を指しているなら、余計にそう感じます。
ただ、もし牧教授と宮沢賢治を連想させたいのであれば、「春と修羅」1冊だけでなく、宮沢賢治の本を数冊置くのがヒントとしては自然ではないでしょうか。
そうではなく「春と修羅」1冊なのには、やはり「春と修羅」には宮沢賢治だけでなく、それとは別に「春と修羅」だけが示何かしらの意味がある様にも思えるんです。
追記:
この宮沢賢治について少し自分なりに考えてみました。それを↑記事内の「牧教授のもう一つの解釈:世界の幸せを求めての破壊」として記載させて頂きました。
ありがとうございます
こちらのブログの宮沢賢治の作品「春と修羅」の考察も興味深いですよ
http://blogs.yahoo.co.jp/knsttkyk/10263170.html
またまた、ありがとうございます。
URL先の文を読んでみました。
なかなか私ですと真意が読み取れませんでしたが、喪失感の様なものを感じました。
個人的にももう少し宮沢賢治を探ってみたいと思います。
ゴジラ幼体に何らかの作用を加えて教授が急激な進化を促したという推理には同感です。私は、ゴジラが魚→両生類→爬虫類→ヒト(最後の尻尾のシーン)と進化する度に人間に近い形態に進化していることから、牧教授が自らを捕食させることによってヒトのDNAを取り込ませ、ゴジラの進化を促したのではないかと推測しました。
また、教授は奥さんを見殺しにした日本政府を恨んでいた、とのセリフがありましたが、先の対戦での原爆による被爆についての言及がありませんでした。YouTubeで岡田さんという人も考察していましたが、牧教授の奥さんを死に至らしめた原因は3,11の原発事故なのではないでしょうか(現段階では原発事故での死亡者は0となっているが、十数年後、内部被爆した人が放射能症に発症する可能性はあります)。原発事故で杜撰な対応をしていた政府への怨念からゴジラを覚醒させ、政府機能が集中した霞ヶ関に向かわせた、また、地方に原発を建設し不可測な事態が発生した時のリスクは押し付ける一方で、自らは膨大な電力を消費して都市としての発展を謳歌する大都会東京への恨みをぶつけるために、ゴジラは東京に向かっていったのではないかと思います。
コメントありがとうございます。
そうなんですよね、牧教授がらみの話で太平洋戦争や原爆の話は直接的には出てきていませんでしたし、
牧教授の年齢的に(おそらく50~60代?)、奥さんが原爆被害に合ったとは年代的に考え難いですし、
そうなると、私も奥さんを死なせたのは3.11の原爆事故なのかなと思っていました。
ですが、ただでさえ津波のシーン、ヤシオリ作戦の冷却作業などで3.11がらみの話は多々出ているので、
この根本部分まで3.11を取り入れてしまうと、本当にこれはゴジラ映画というよりは3.11の話になってしまうので違和感も感じます。
原爆の被爆と、福島原発の被爆では大きく意味が異なり、本来の反核のテーマが完全に消えてしまいそうで。
震災を経験した今の時代的に、敢えて今回の『シンゴジラ』では反核というテーマをゴジラから完全に捨て、3.11に焦点を定めたのかもしれませんが。
実際のところどうなのでしょうか。
考察の内容に概ね同意いたします。
一点思うのは、「牧教授はアメリカもまた恨んでおり、そして試したのではないか」ということです。
ゴジラに反核のテーマがあることは周知の事実ですが、
それならゴジラは「米国に向かわなければならない」はずだったのです。
原爆を落とさずとも日本は負けが殆ど決まっていましたから、あれは完全な米国の都合かと。
この問題について金子監督はゴジラを「太平洋戦争で死んだ人々の怨念の集合体」とすることで解決しました。
(それでも米国に向かうような気がしますが・・・。)
そしてエメゴジでは「フランスの核」、ギャレゴジでは「元からいた」、という設定になっています。
牧教授は日本を恨んでいたかもしれませんが、同時にその日本に核を落とし、核の力を享受する米国にも思うところがあったのでは無いでしょうか。
なのでデータの本体を「米国」に残し、その欠けたパーツを「日本の折り紙」の形にして隠した。
事態に窮すれば米国は核を使うだろう、核保有国とはそういうもの。
そこを堪えて、過ちを認め、かつて自らが傷つけた相手に手を差し伸べることができるか?
牧教授はそうやって米国も試したのでは、と思います。
結局、それを成し遂げたのは生粋のアメリカ人でなく、カヨコになったわけですが・・・。
コメントありがとうございます。
牧教授の奥さんが、原爆被害なのか原発被害なのかで話が大分変わってくるかと思いますが、
原爆被害であるのであれば確かにその通りかと思います。日本政府だけでなく、その矛先はアメリカにも向かうのが道理ですよね。
おっしゃる通り、「好きなようにしろ」というのは、実は日本人だけでなく、アメリカや加盟国にも向けられていた選択だったのかもしれません。
そういえば、ゴジラを暴走させた発端もよく考えてみると米軍の爆撃機ですよね。
もしあの攻撃がなかったら、ゴジラや日本はどうしていたのでしょうか。あの時点から選択が始まっていたのかもしれません。
あとアメリカについては、第5形態の飛来によって最終的にケリを付けに行くつもりだったのではないでしょうか。
こちらにもお邪魔しますよ!
毎回長文投下してるんで今回はさらっとトンデモ路線でいくよ!!
庵野さんはアニメ出身だし、アニメ屋さんは無意味なカットを嫌う傾向があります。
本は何かのメッセージでしょう。
ところで庵野さんの周りで賢治好きといえばあの師匠ですよ。
そして机にはメガネもありました。
つまり
ぱやおおおお、東京湾に沈めええええええ
という心の叫びですね。
うそですうそうそうそ(笑)
本当はなんなんでしょうかね。
一回目見た時に記憶に引っかかるくらい、はっきりと見せてたので
間違いなく何か意味はあるんでしょうけど。
コメントまたまたありがとうございます。
ふむふむ、あの師匠も宮沢賢治好きだったのですか。
それはなんというか納得です(笑)
では、ちょっと記事で触れましたが、風の谷のナウシカももしかしてその影響を受けてるんでしょうか。
それにしても実際のところなんのメッセージなのでしょう。
メッセージはあると思いたいです、あんなにあからさまに置いて、メッセージなんてないですよだったらある意味すごいです(笑)
考察とても面白く拝見しております。
牧教授は、放射能無害化の方程式を見つけた。
しかしそれは諸刃の剣で強国のもとにあれば平和の為ではなく、現存する核兵器を上回る兵器を生み出すことに利用されると容易に予測出来た。
そこで日本を逃げられない状態に追い込んで刃先をつきつけて「君らにあげるから使い方はまかせたよ?」と使い方をゆだねた物語なのではと私は考えます。憎いながらもその技術を攻撃ではなく治癒の方に使ってくれる可能性がわずかにもある国として。
紙に不完全な数式を残し、折り鶴を残したのは日本人への挑戦状というより、祈りや願いのようなものを感じました。
あと、もし牧教授が取り込まれるなどしてその意思が、
ゴジラに反映されているのならば、
東京を目指したのは帰りたい場所があったのかもしれません。
コメントありがとうございます。
そういった解釈も十分考えられそうです。むしろその方が自然だと思います。
私は今回、牧教授という人物を負のパターンで考えてしまいましたが、正のパターンももちろんあるかと思います。まさに、それがもぐさんがおしゃている様な内容なのではないかと。折鶴も、素直に考えれば、祈りや平和の象徴かと思います。
この牧教授については、肝心な場所が欠けているような気がします。だから正と負どちらにでも考えられる。
それが作り手側の狙いなのかもしれませんが。
『春と修羅』の解釈はもっとシンプルでいいのかなと思います。「永訣の朝」での妹の死、「春と修羅」での「はぎしり燃えてゆききする おれはひとりの修羅なのだ」という一節を、自分の境遇になぞらえたんだと思います。
コメントありがとうございます。
ふむふむ、勉強になります。
春と修羅や宮沢賢治について、もっと知識があればよかったのですが・・・。
人間が消えれば世界は幸せになる、だから人間を殺そう。すごく逝っちゃってる思想ですよね・・・。
Gガンダムという昔の作品にもやっぱり逝っちゃった人がいて「人類は地球環境を破壊する。だから人類を滅ぼして自然破壊を止めさせる、環境を、地球を守る」という歪んだ思想に行きつきます。でも最終的には「人類もまた自然の一部。それを滅ぼすなら自分のやってる事もまた自然を破壊する行為だ」という事に気づかされるのですが。
最悪の想定を読んでこの話を思い出しました。
コメントありがとうございます。
Gガンダムは昔観ましたがうる覚えです、そんな話でしたか。結構ヤバメな話だったんですね。
こういう原理的な考え方は、突っつけば矛盾やループの塊だと思います。
それさえに気付かなくなった時が、修羅なのかもしれません。
syumiさん、非常に正確な牧教授の情報、ありがとうございます。
ネットでいろいろな方の意見・見解を拾い読みしましたが、最も信頼できる考察で非常に参考になりました。
そこで、僕の考える牧教授の狙いについても、少し紹介させてください。
僕が重要だと思うワードは、主人公・矢口が2回ほど口にした「放射能を無害化する研究をしていた」という主旨の発言です。
このワードに限らず、矢口の発言は観客に正しい推論の材料を提供していることが多いようです。
(例えば、陸上に上がったゴジラが直立する形態変化をする様子を見て「進化か」と指摘しますが、
普通、短時間での形態変化は「変態(昆虫が幼虫からサナギや蝶に身体を変え ること)」と考える方が普通です。
あるいは、「発生は進化の過程をたどる」という生物学の基本命題もあるので、発生・成長の過程で形態を変えたと認識することが、
非常に長い時間をかけて形態変化する進化より、合理的な推論だと思います。
それを「進化」と呼んでいるのは、そう解釈してほしいという制作側の意図があるからだと思われます。)
矢口のこの台詞を素直に読めば、牧教授の放射能の無害化の研究と、ゴジラが何らかの関連性を持っていると考えられます。
(先に匿名の方が指摘されたとおり)
実際、エンディング近くで、凍結したゴジラの体内?から、非常に半減期の短い放射性元素が見つかり、
ゴジラが放射能の 効力を弱める能力を有していることが語られます。
そして、最後のシーンで、凍結したゴジラの尻尾に人間の形をした物がありましたが、
これも素直に類推すれば、あれはゴジラに取り込まれた?牧教授だと思われます。
こうした劇中に提示された事実と、推論をつなげて、僕は以下のようなストーリーを考えています。
〈事実〉牧教授は、アメリカ政府から分析を委託された研究機関で、放射性廃棄物が集中した場所に生息する生物を調べていた。
〈推論〉放射能のあふれる場所に生息する生物は、放射能の影響を生存可能レベルまで下げる何らかの「能力」を有していたはず。
その「能力」とは、「放射線を防ぐことのできる細胞壁等」か、「放 射能を弱める能力」のどちらか、あるいは両方と推定される。
牧教授は元々「放射能の無害化」に強い関心を持っていたので、この調査から得られた知見を、自分のテーマに結び付けて実現しようと考えた。
〈事実〉東京湾で牧教授が乗ってきたクルーザーが無人で見つかった。
そのクルーザーの下、アクアラインの上で水蒸気爆発のような事象が発生し、ゴジラが出現(その時点では姿は見せなかったが)した。
ゴジラが出現する前に、どこからかゴジラが移動してきた形跡は作品中に描かれていない。
〈推論〉ゴジラの細胞?あるいは小さな生命体?をもとに、牧教授は何らかの遺伝子操作を行った。
その結果、日本 に持ち込める程度の微生物レベルの生命だったものが、急速に巨大化した。
その際、牧教授もゴジラの中に取り込まれたとみられ、それは意図的に取り込まれた可能性が高い。
〈事実〉ゴジラは、通常の生物よりかなり大きい。
また、劇中で矢口は「ゴジラは人間の8倍の遺伝子を持っている」と発言している。
〈推論〉身体が大きいのは「倍数体」の特徴。
人間は1対の遺伝子を持つ2倍体なので、ゴジラはその8倍=16倍体と考えられる。
先の「牧教授は細胞くらいの大きさのゴジラに何か遺伝子操作して、急速に進化させた」という推論に立つならば、
身体が巨大化するためには物理的な材料が必要であ り、それが東京湾の海底にあったため、
ゴジラは日本の東京湾に出現したと考えられる。(ゴジラ日本出現の必然性)
〈事実〉東京湾に出現したゴジラは、海中から地上へ、匍匐から直立へと急速に進化した。
そのスピードは進化とは考えられないほど速い。
〈推論〉進化とは本来、代を替わる中で形態変化することを言う。
もし、その進化がゴジラに起きているとしたら、ゴジラの中で細胞の新陳代謝が急速に起きていることになり、
ゴジラは個々の細胞の集合体ということになる。
それは、血液が流れていたり、口からものを吸収できたりすることとは矛盾するように思える。
とすれば、現在存在する生物の遺伝子には、先祖が持っていた遺伝子が含まれているので、
それらを順に発現させることで、進化の過程をたどっている、という可能性が考えられる。
その場合、進化の頂点が人間だと考えると、いずれゴジラも人型になるのか?という疑問が生じるが、
ゴジラの現時点での最終形態からは、爬虫類の系統の進化をたどっていると考えられるので、
恐竜が絶滅しなかった場合の爬虫類型の高等生物?がゴジラの最終形態と考えられる。
ただ、牧教授が加えた遺伝子操作が、爬虫類型の遺伝子だけだったのか、
あるいは鳥類や哺乳類などの別の系統の遺伝子も加えた のかによって、
最終形態に羽が生えていたり、体毛のある手足がある可能性も捨てきれない。
以上が、映画の中で明らかにされた事実から、僕が推定したアレコレです。
syumiさんのご意見も伺えたら嬉しいです。
長文で失礼いたしましたm(__)m
細かく考察して頂きまして、誠にありがとうございます。
ぽんきちさんの考察にのっとり、私も考えて行きたいと思います。
(ちょっと遺伝子や進化については知識が乏しいため、見当外れになっていたら失礼します。)
ぽんきちさんのおっしゃるように、東京湾に出現した際にゴジラが微生物レベルの生命であったのならば、おそらくその時点では人間の8倍の遺伝子は持っていなかったのではないでしょうか。そうではなく、遺伝子を吸収する能力に長けていた生物だったのかもしれません。
①それでゴジラはまずは牧教授が取り込み牧教授の遺伝子情報を得た。
②東京湾に居る海中生物を次々と吸収していき、遺伝子情報と成長のための物理的な養分を得た。(第1形態)
③海中生物の遺伝子と教授(人間)の遺伝子を参考に、海中生物→陸上生物までの進化を一気に行い陸上に出た。(第2形態)
④第2形態で陸にあがり、劇中で描かれていないものの、他の人間や鳥、犬や猫の動物などを取り込んだ。結果、確認された時には8倍もの遺伝子情報を持っていた。
こんな感じなのではないでしょうか。
続いて進化についてですが、劇中で「死すら超越している可能性がある」と述べられていますが、あれが死なずに進化できる=すぐさま進化できるゴジラの生態を意味なのではないでしょうか。本来であれば親から子へ世代交代し何度もの死を重ねながら進化するはずの過程を省き、死すら超越するスピードで進化してしまう的な。
またゴジラの進化については、単純に魚類→両生類→爬虫類→といったセオリーどおりの流れを歩んでいるのではなく、その時々の状況に合わせて進化方法を決めているのかもしれません。例えば、第2形態は周囲の建物の大きさにびびりより大きくなろうと立ち上がり第3形態に進化したのかもしれませんし、第3形態は自衛隊と対峙した際に危機感を感じたのと、またあの周囲の建物がさらに大きかったため、より大きく力強い第4形態(爬虫類?)に進化したのかもしれません。
そして、第5形態は、タパ作戦の様な集中砲火を逃れるためより”小型”に、米空軍の様な空からの攻撃にも応戦するため”飛べるよう”に、といった意味で、「小型に郡体化して各地に飛来する第5形態」としての進化を選んだのかもしれません。
最後に、牧教授の目的についてですが、私が考察したような破滅的な目的ではなく、おしゃっているような放射能無害化の研究を善意として行っていた可能性も十分ありえます。むしろそっちの方が自然かと(笑)
もしかすると、ゴジラはもともとあの様な凶暴で巨大な生物になるとは思っておらず、微生物レベルの生物で、放射能まみれの地域やもしくは人間の体に取り込めば、放射能を吸収し除去してくれる生物を目指して研究・開発していたのかもしれません。それが何かの間違いでああいった形になってしまったのかもしれません。
ただそうなると、「政府を恨んでいた」や「好きなようにした」のくだりや、折鶴や春と修羅が宙ぶらりんになりそうではありますが。(でも恨みや辛さを乗り越えてでも放射能無効化の研究を続けてという線も考えられます。)
すみません、思いつくままに書いてしました。回答になっていなかったらごめんなさい!
syumiさん、面白いご意見ありがとうございました。
後段の牧教授の気持ちの部分は、ご意見の通りだと思います。
復讐の思いも、放射能の無害化という研究者の思いも、両方ありだと思いました。
ゴジラの初期の細胞が、他の生物の遺伝子を自分の中に取り入れる能力の部分については、確かにその可能性も考えられると思いました。
ただ、その能力が最初から備わっていたとすると、牧教授の遺伝子操作が無くても最終形に行き着く、あるいは牧教授以外の研究者にも可能(例えばゴジラの存在を一番早く知っていたアメリカの研究者達にも可能)となるので、あちこちにゴジラが出現するのは現時点までのストーリーとは矛盾していると思います。
もっとも、ゴジラ以外にも怪獣が今後登場するなら、例えば昆虫の遺伝子が発現したモスラや、亀の遺伝子からガメラが登場するなら、ゴジラ細胞自体に遺伝子を積極的に取り込む能力が備わっていたことになりますね(笑)
怪獣映画には都合いい設定です。
なお、「死すら超越した存在」のくだりは、前後の文脈が思い出せないのでコメントは控えます。
真面目にご回答くださり、ありがとうございました。
昔のゴジラに比べたら特撮は雲泥の差で円谷英二が見たら度肝を抜かれるだろう。でもこのすべての基礎を作ったのは円谷英二なのだ。絶賛の中に全くつまらんという人もいる。特に子供には全くつまらんだろう。円谷は後半子供の視点を重視した。しかし、本作は大人を対象にしている。昔のゴジラも対策本部や会話の場面になると子供が退屈してざわざわしていた。行政の対応や国際関係など結構面白いのにそれを楽しめない大人の子供が増えているのかも。しかし現実の災害や原発事故が深刻で映画の世界と思えないなんとなく重い映画である。
コメントありがとうございます。
後半の描き方については、人それぞれ、評価がかなり変わりそうですよね。
私の父も今回、ゴジラを観にいった様ですが感想を聴いたら「迫力あった、凄かった」でした。で、会議シーンは退屈してたそうです。
こういった会議シーンや政府や権力系の小難しい話がいかにも好きな父だったので、これには意外でした。
もしかしたら私の父は、ゴジラ映画として観にいってあの描き方であったから、退屈してしまったのかもしれません。
今回のシンゴジラは、これまでのゴジラ映画や怪獣映画とのギャップが功を奏したとも言われていますが、逆にそのギャップが不満に感じてしまったり怒りに繋がってしまう方もどうしても一定数いるかと思います。
特に、ヒーローだった頃の昭和ゴジラで育った世代の方などは、抵抗を持つ方が多いような気がします。
こちらの方の記事も大変面白く読ませて貰いました。宮沢賢治についても、より深い考察がされていて、わたしもそこまで詳しい訳ではないので参考になりました。
さて、2回目を観てきました。新たに気付いたことと、それに基づいた推察をまとめてみました。
まず、ゴジラの尻尾について。これは、自分で言うのもなんですが、あながち間違ってはいないような気がしています。既に考察がなされている通り、第5形態への進化、という説の裏付けになるかと思います。
第2形態のアップで「あれっ」となったのは、胸に不自然な出っ張りがあること。この出っ張り、第4形態までずっとあります。その後、ストーリーが進み、ゴジラが上陸して夜のシーンに入ったとき、ビーム発射前に白紫色に発光します。当然、ビームが射出される背鰭が光っている訳ですが、1カットだけ前からゴジラを、しかも遠景で撮っているシーンがありました。そのとき見えた、ビームと同色で発光している部位がありました。この出っ張りの部分と、尻尾の根元から5分の4程まで、です。ただし、このとき尻尾の先までは光っていませんでした。
庵野監督ご自身、1980年代のゴジラ、特にVSビオランテからかなり影響を受けておられるのでは、と考えています。庵野さんはこのとき大学生くらいの年代ですから。ビオランテにも、巨神兵にも、エヴァンゲリオンにも、首元にコア、心臓部分がありますよね。単純に、そういうデザインがお好きなんだと思います。というところから、ゴジラの中枢機関は、そもそも最初から、首の根元、この出っ張りの部分にあったのではないか、と推測しました。人間的にいうところの原子炉です。
ゴジラはこのとき、既に自衛隊から集中放火を受けていますし、アメリカ軍の爆弾を受けて、それを苦痛に感じています。この攻撃に総合して言えるのは、全て胴体への攻撃だった、ということです。人間は皆、ゴジラを倒そうとするあまり、尻尾には見向きもしませんでした。被弾の描写も無かったと思います。
このことから、ゴジラは尻尾にも、中枢機関を新たに作ろうとしたのではないでしょうか。それが夜のシーンで中途半端に光った尻尾に現れていたのでは。エネルギー切れを経て、再び動き始めたゴジラは、尻尾の先からもビームを発射していました。このとき、もう明らかに尻尾にも口が出来ていました。おそらく、既に中枢機関の生成が完了していたのだと思われます。そして、人間が攻撃を仕掛けてこない、尻尾から、進化の分体をまた作ろうとしていた。その段階で凍結された。人間側から見ると、ギリギリ進化を食い止めることが出来た、と言う訳です。タイミングは偶然です。でも、凍結作戦でも、結局尻尾は攻撃されなかったことを考えると、ちょっと怖いです。
何故あのように、人間が苦しんでいるような造形になったのか、という部分には疑問が残ります。が、自分的には、これで尻尾の謎に少しばかり答えが出たような気にはなっています。
肝心の牧元教授のことですが、残念ながら、春と修羅ほどの発見はありませんでした。ほんとうにミスリードになってしまうかもしれないのですが、こんなこと考えた人いるんだ、くらいに思って頂いて結構です。今回、政治劇の背景に徹底的に注目して観ていました。ただし絵画や書のチェックは全く出来ませんでした。これはもう、DVDが出てからじゃないと無理な気もします…。
「春と修羅」に、「Zypressen」、イトスギが出てきます。偶然か狙った物かは分かりませんが、調べてみると、イトスギの花言葉は「絶望」でした。しかもこのイトスギ、形状がゴジラの背鰭に似ています。これはほんとうにこれだけで、ちょっと良く出来てるなあ、と思った程度です。
シンゴジラの背景にも花が出てきました。蘭でした。胡蝶蘭だと思います。就任や祝い事の際に送られる、フォーマルフラワーとしても良く知られていますし、中国では孔子が自身を蘭に例えたこともあり、古くから愛されている花だそうです。「善人」や「君子」の比喩に用いられる、高貴な花だとか。主人公の名前が「蘭堂」ですし、彼のイメージでもあるんでしょう。
蘭は劇中3回出てきました。1回目、2回目は白い蘭でした。場所は首相官邸。ただ、3回目が違いました。紫がかったピンクの蘭の中央に、白い蘭のあるアレンジメントでした。しかも、政府が立川に移った後です。あんな逼迫した状況の中、生花が飾ってあることに違和感を覚えました。おまけに、牧元教授が遺した折り鶴と、蘭の花の色、紫っぽいピンクは全く同じ色でした。偶然にしては出来すぎています。折り紙なんて、ものすごい数の色がありますから。ピンクの胡蝶蘭の花言葉は「あなたを愛しています」。白は「清純」。
ここから深読みします。もし、これらの要素が、意図的に配されているとするならば、syumiさんのおっしゃった通り、折り鶴は、牧教授から、亡くなった彼の妻への祈り、メッセージでもあった、ということで間違いなさそうだと考えます。矢口の劇中の台詞を借りると、教授にとって「唯一の救いでもあった妻」は「放射性物質によって」死亡した。教授は、「その放射性物質を生み出した、人間そのものをも恨んでいたんだろう」。他の方がコメントでも仰っていましたが、私も、矢口の台詞は最大のヒントだと思って聞いていました。おそらく、教授にとって、政府がどうとかは関係なかったのではないでしょうか。ただただ、人間を恨んでいた。ほんとうに恨んでいたけれど、彼の中には、まだ人間を「試したい」気持ちがあった。彼が遺したのは、「ゴジラの細胞組織の活動を無力化する新種微生物の組成式」(めちゃくちゃうろ覚え)で、少なくとも、ゴジラそのもののデータではありませんでした。ゴジラをただ目覚めさせ、破壊の限りを尽くすことが目的なら、こんなものを遺す必要は無かった筈です。彼は、意図してゴジラを目覚めさせ、人間を試した。自分が遺す物を活用出来ない程度ならば、人間が死に絶えても構わない、くらいは思っていたかもしれませんが。彼の計画そのものは、本記事でも取り上げられている宮沢賢治自身の考察の項で納得しました。
以上、2回目で気になったところを書き出してみました。前回のコメントを拾って記事にして下さるとは思いもよらず、とても嬉しかったです。ありがとうございました。
2回目観てきたのですね。またまた、細かく考察意見頂きありがとうございます。
胸の出っ張りについては、私も疑問に思っていました。あれは何か意味があってのデザインかと。
それが何かは、ゆばさんがおしゃっている様に、おそらく中枢機関などかと思います。そうなると、胸への攻撃を避けるため中枢機関を尻尾に逃がしたのはありえそうです。VSシリーズでも尾っぽの付け根あたりに「第2の脳」がある設定もありましたしね。シンゴジラ活動停止中に、妙に尻尾だけが重力に逆らい起っていましたが、あれも中枢機関を作っている最中を示した構図だったのかもしれません。
なお、最後の尻尾のゴジラ人間ですが、あれについては私は”食い止められなかった”と予想しています。理由としては、ヤシオリ作戦が成功し、ゴジラがカチッと凍結する所をアップで写すシーンがありますが、その直後望遠カメラで凍結したゴジラの全体像が写し出されます。この際に尻尾にはゴジラ人間が出てきていませんでした。(凝視しましたが1ミリもゴジラ人間らしきものは見えなかった記憶です)そして最後のラストシーンで初めて尻尾にゴジラ人間が出てきたので、あれは食い止められたのではなく、現在進行中だと予想しています。そういった理解で、今回の記事のプランBを書かせて頂きました。
蘭については、正直なところ全く存在に気付きませんでした。さすがです(笑)
これほど凝縮したストーリーの中で、3回も同じ花が出てくるのはやはり意味があるのではないかと思います。今回、放射能熱線を吐く際の発光も紫が混じっていますが、ここともその紫っぽいピンクの蘭は関係してくるのでしょうか。
牧教授については、たしかに恨みを持ったその上でもう一度人間を試したい気持ちがあったのかもしれません。
今改めて思うのは、第3形態のときに初めてゴジラと人間(ヘリ)が対峙し、妙に撃つか撃たないかをピックアップしたシーンがありましたよね。あそこから選択(試し)の描写が始まっていたのではないかと。第3形態には手を出さなかったけれど、第4形態からはタパ作戦や米空軍の空爆とどんどんとゴジラを襲撃していった、その選択があったからゴジラは覚醒したのではないかと。
「好きなようにした」は、核攻撃or凝固剤の選択としても捉えられますし、ゴジラを”攻撃した”or”攻撃しない”の選択としても捉えられる気がします。
なんだか纏まらない返信で失礼します。
また、何か発見がありましたら、ぜひコメント頂けると幸いです。このシンゴジラは正直まだまだ考察は沢山できる気がします。そう思うくらいコメントを貰う度に驚いています。
尻尾が凍結されるシーンには気付いてませんでした。となると、まだまだゴジラの体内進化は続行中、ということになるのでしょうか。うーん、だとしたらかなりブラックな終わり方になりますね。シンゴジラ、続編は作って欲しくない、ないだろうなあという希望的観測(笑)のもとの考察になってしまいました。お先真っ暗なシナリオでも、庵野さんらしさ、ということになるんでしょうけれど。それはそれで好きです。
昨日テレビを観ていると、政治家の方のインタビューがあって、多分大臣の執務室か何かだったんでしょうけれど、周りが白い蘭だらけでした。そんなこんなで白い蘭に深い意味はないような…?やっぱり3回目のものはヒントなんでしょうね。折り鶴と色を合わせたというより、折り鶴を蘭の色に合わせて用意したと感じました。真ん中の白がちょっと気になっています。歯抜けの暗号の暗喩なのか、それこそ周りのピンクの蘭と色を足すと、ゴジラの紫の熱線の色とも思えますし。いろいろ考えられそうです。
攻撃の選択は、そのとおりだと思います。喩え第3形態に攻撃していても、ゴジラは倒せなかったんじゃないかなあと。早い段階で分体化したり。そういったことも、牧教授は事前に把握していたんでしょうね。
色の考察は、もう少し考えられそうなので、また纏まったらご報告します。
———繋げさせて頂きました(管理人syumi)———————————————————————–
妙な形になってしまい申し訳ありません。前コメントを返信の形にしたつもりが、なっていませんでした。消せるようでしたら、消して下さって構いません。ゴジラと色について、更に少し考えがまとまったので、書き込ませて頂いています。
まず、ゴジラの吐く光線についてですが、白紫と前のコメントで書きました。白が光線の主体の色と認識を改めました。ゴジラの体内は赤く光っています。体内エネルギーを凝縮して吐き出すのが熱線で、炎の温度は高くなればなるほど白に近付くため、温度変化に伴う色は青→白となる筈です。ということは、あの紫は、温度の下がった青い部分が、ゴジラの赤い体内や周囲の炎の色によって紫になった色。あくまで副次的にそう見えるだけ、という前提で話を進めます。
作中のゴジラは、日本神話における八岐大蛇に例えることが出来、作中にもいくつか、それとおぼしき名称が登場します。なので、徹底的に日本の色彩感覚に基づいてゴジラを考察しました。
今作のゴジラは真っ黒です。黒、というのは、「畏れ」の色であるとされています。畏怖の色です。勿論暗闇の色でもありますが、特に、山の国である日本では、山の影が黒々としているのを見て、何か大きな生き物の集合体がそこにあり、得体の知れない畏れを抱いた、そのイメージが強いようです。逆に、白は神聖な色であるとされていました。神様の色です。山の向こうから昇る、明け方の日の光の色で、この様を「顕」、あきらかになる、と表していました。現代における白の、清い、潔い、というイメージはここから来ています。それと同時に、「死」をあらわす色でもありました。人間に限らず、生き物(だと思われていたもの)の骨は、皆白いからです。白、という漢字自体、骨の有様からきている、という説もあります。そして、赤。ゴジラの体内の色ですが、「生」の色です。血の色。人間や生き物が、生きているときに流す色だからです。人の有様から成り立っている漢字でもあります。火を熾すようになってからは、火そのものの象徴としても扱われてきました。ただ、日本神話で火の神が最後に生まれ、イザナミを傷つけたことから分かるように、日本において火はそこまで重要な要素ではありませんでした。
古代の日本においては、この3色が「色」としてはじめに認識されていたようです。のちに、青が加わり4色になりました。ただ、青、という色は、古い表記だと「白」とも「黒」ともとれるような使われ方をしています。また、緑、という意味も含んでいます。現在も、緑色に光るのに、青信号、と言ったりしますが、その名残です。
日本の「黒」、「白」、「赤」は、始めに認識されていたこともあって、今日でもハレの行事によく登場します。何かと、格が高い色、重要な色とされるのもこのためです。シンゴジラにおいても同じような使われ方をされているな、と思ったので追記させていただきました。
こう考えてみると、白い蘭は、清廉な蘭堂のイメージであるとともに、不吉な色。3度目の蘭は本当に花言葉ありきだったのかも知れません。
前後してしまったメッセージは、一部編集で繋げさせて頂きました。
そして、またまた貴重な考察ありがとうございます。
なんというか、普通に勉強になりました(笑)今まで気にせず生きてきましたが、色にはそんな意味があったのですね。
庵野監督はエヴァでも色に意味を持たせていたようですし、今回のゆばさんの考察を見ても、色はおそらく何かしらの意味あるように思えます。
ゆばさんの考察をまとめると、ゴジラは畏れ身(黒)を背負った存在であり、生(赤)を望む存在であり(もしくは生を司る存在、生を生み出す存在?)であり、そして神(白)として死(白)を吐き出しばら撒く存在を示したかったのでしょうか。
私もちょっと色も絡めて考えていこうと思います。
丁寧に考察いただきありがとうございました。本当に勉強になりました。
またなにか思いつきましたら、コメントください。
ちなみに私は、この記事では最悪パターンを考察してしいましたが、牧教授が善意で何かをしようとしていた方向でも今考えております。
どうしようか迷ったんですけど、書くことにしました。
まず、放射能ってなんだかわかりますか?
放射性物質は安定核種になるために放射線、所謂、α線、β線、γ線を放出しながら安定核種に移行します。半減期と言う言葉もあるようにどんどんエネルギーは小さくなっていくんです。だから、初期のエネルギーとその影響は大きくともほおっておけば減衰するわけで。
恐らくゴジラは劇中にでてくる核廃棄物を取り込む程度では生体エネルギーとはなりえず、何かしらの核原料物質を取り込まなければ持続的エネルギーを得ることは困難です。原子炉物理学に携わっているものにとっては、ファンタジーとして「あるかもねー」の世界ならまだしも、本気で考察するのであれば、目をつむることは出来ない物理学上の話です。
きっと、製作に携わっている人も、世間的に得られるイメージで制作しているのでしょうから、本気で議論されると破城すると思います。
そのことを含みおいて、楽しく色々と想像を膨らませるのはいいのかなと。
コメントありがとうございます。
今回のシンゴジラの生体エネルギーの部分はグレーで、私も核廃棄物を取り込む程度では賄えるとは思っておらず、かといってどういう原理になっているのかはよくわかりません。(劇中では水や空気からエネルギーを作り出せるようなことも言っていましたが)
ですのでその部分については、本記事の考察では触れていないはずです。
私が書いた内容でどこか気に触る部分があったのでしょうか。
なお、敢えて書くまでもありませんが、ゴジラ自体が架空のファンタジーですので、ここでの考察はファンタジーとして楽しんでいます。
すみません、ブログ主さんの記述が気に入らないとか、そんなことは全く思ってないんです。
ただ、単純に核エネルギーの物理的現象をすっとばした考察をファンタジーとしてでなく、さも本当のことのようにまき散らすのはミスリードなのかなと。ブログ主さんの記述は、恐らくそこのところを考えたうえで書かれているのかなと、シンゴジラ関係の記事では共感がもてる内容だと勝手に思っています。私も昔からのゴジラフリークなので、エンターティメントとして楽しむのはいいんですけど、真顔で科学的見地でいかにも的なことを言われると黙っておけない性格なので。
お気を悪くさせてしまったのであれば、申し訳ありませんが、その方面の一応専門家みたいなものですので、不明なこととかありましたら、訊いてくだされば、いつでもお答えしますので。
やはり、解らないこと、疑問に思うことを解決するのも使命と思ってますので。
板汚し、申し訳ありませんでした。
ご丁寧に返信頂きありがとうございます。
私は放射能や物理学の専門家ではないため、正直詳しい仕組みの部分はわかりません。
ミスリードさせるつもりは勿論ありませんが、結果的にその様に取れる文章があった気もします。失礼いたしました。
また、なんともお心図よいお言葉ありがとうございます。
その上で、もし私が書いた内容の中で専門家の目線から観て「ここは違う」、「ここを明らかにしなければならない」といった点がありましたら教えて頂けると幸いです。
ゴジラはファンタジーですので、製作側もグレーにしていると思われる部分はファンタジーとして考える必要があるかと思いますが、
こちらの知識不足や理解不足でグレーになってしまっている部分については、考察する上で極力解消したいと思っております。
あまり関係ないかもしれないが、冒頭での不明生物出現時の総理がこの存在を知っているかのような場面がある。
考え込むような場面、あそこが気になる。
シンゴジラを殺す方法で終盤、核による攻撃とあるが、それをしてもゴジラ細胞さえ残れば無生増殖するからダメなんじゃって思いましたけど。
あとはシンゴジラ→巨神兵って物語的には続く感じなのかな?
コメントありがとうございます。
総理の仕草?は余り覚えてないのですが、そんな場面がありましたか。
後半、アメリカの証拠隠滅がどうこう的な会話もありましたし、総理なのでなにか知っていたのかもしれません。
熱核兵器は数十万度レベルの破壊力となるので、直撃すればシンゴジラと言えども細胞レベルで蒸発するかと思います。
あの放射熱線で狙い打ち、遠方で爆破させ直撃を免れれば生き残るかもしれませんが。
巨神兵は、直接的には繋がらないと思います。繋げたらゴジラファンや宮崎駿あたりが黙っていないかと(笑)
裏設定ならありえるかもしれません。
牧教授とゴジラの考察楽しく拝読いたしました。
今回の作品は非常に多くの論評が飛び交っており牧教授の意思や思惑によってゴジラが行動しているという推論を多数見かけ私としても概ね共感するところではあります。
ゴジラが虚構として描かれている以上、政府を憎み修羅と化した牧教授の怨念が何らかの方法でゴジラに宿るということは作品として十分にあり得る設定といえますが、しかしそのような内容は作中で一切描写されていない全くの推論であることから確度が低いと言わざるを得ません。
牧教授がゴジラをどの程度理解してどのような処置をして進化を促したのか、或いはどう好きにしたのか明確に描かれていない以上は劇中で出た台詞や映像から教授とゴジラの行動を読み解くほうがより確実かと思われます。
よってゴジラが東京都心を目指した理由に関して私なりに納得できる解釈は、牧教授の意思などではなく単に「(恐らくは背鰭にある)フェーズドアレイレーダーが最も過剰に反応する都心を(帰巣本能((学習や経験ではない生前から固定化された位置への帰巣性))や反響定位的な感応で)目指した」のではないかと考えます。
高度一万五千メートル以上を飛行する現行機で世界最高のステルス性能を持つ爆撃機に細い光線を観測射撃も修正もせずに命中させ小型のドーロンも確実に補足する生体レーダーを今回のゴジラは保持しその恐るべき能力を発揮します。
現実にも防衛省が開発した「マイモレーダ」と呼ばれる新技術がステルス機を補足することが可能と言われており、そのサブアレイという装置が乱立する様子はまさにゴジラの背鰭のようです。
高出力高密度高性能のレーダーは遠くのものを立体的にそれこそ映像のように知覚することを可能とします。ゴジラからすれば視力より膨大な情報を背鰭レーダーから得ていることでしょう。
もとより都心の電波は過密でありゴジラが進行してくるとなればより通信は混雑を極めたはずです。その電波にゴジラが引き寄せられた(クジラやイルカが地磁気の乱れで浜に打ち上げられるように)と考えればゴジラの行動の一端が理解できるのではないでしょうか。
初代ゴジラが銀座の鐘楼が鳴るのに驚き興味をそそられ触れて破壊してしまうような「単なる気まぐれ」としか表しようのない神秘的な姿が今回のゴジラの原点であるとすれば、その行動は正しく「ただ歩いているだけ」であり牧教授がしたことは「(ゴジラを生み出したので)私は好きにした。(あとどうするか)好きにしろ」という人類に対する試練を作り出しただけでゴジラそのものをコントロールするような行為までには達していなかったのではないかと思います。
もし自在にゴジラを操れたのならそれこそ世界中の核保有国を蹂躙し直接的か間接的か日本を大いに苦しめ溜飲を下げたことでしょうが、やはりそれでは単なる復讐劇となり話が稚拙になってしまいます。
やはりゴジラはゴジラとして振る舞ったというのが私の考えです。乱文失礼いたしました。
コメントありがとうございます。
大変、専門的で理路整然とした見解を頂きありがとうございます。ゴジラが東京に向かった理由が、どうしても導きだせなかったのですが、頂きました内容でとても納得しました。100%は断言できないものの、あなた様のおっしゃっている内容が、ゴジラが東京に向かった理由としておそらく一番正解に近い気がします。
今回のゴジラの背びれからの攻撃は少々違和感がありました。なぜあそこまで精度が高いのかと。それにヤシオリ作戦時など、気がついてくれといわんばかりにドローン打ち落とすシーンが連続してましたしね。頂いたコメントをもとに思い返してみると、ああいった描写が、今回のゴジラがレーダー的体質を持ち合わせている事のアピールだった様に思えます。
別の方が纏めているシンゴジラの進行ルートをみても、鎌倉から登場した第4形態は、電波過密地帯と思われる横浜市→武蔵小杉(再開発で電波過密?)を辿り23区に入っているので、進行ルートとしても納得です。
頭のもやもやがはれました。
そうなると私の上のプランAの考察が破綻しそうですが、そこは牧教授がそのゴジラのレーダー特性を事前に把握していたという事で辻褄を合わさせてください(汗)
ちなみに、『ゴジラ1984』では、渡り鳥の発する超音波にゴジラの体内の磁性体が反応するという設定があります。シンゴジラはゴジラ1984のオマージュも多いため、このゴジラの移動特性についてもゴジラ1984を意識したのかもしれません。
匿名さまへ
横から失礼します。
牧教授の怨念が〜、修羅が〜
というのが推論であって根拠が無いとのことですが、
たしかに、あくまで推論であって叙述的な考察だとは思いますが、少なくとも「牧教授が自らの意思でシンゴジラに取り込まれ、その進化に意図的に貢献した=“好きにした”」というのは劇中情報だけで確定してると思いますよ。
遺伝情報、ないし放射性物質を、生物本能として吸収しに行ったのは確かだと思います。
牧教授がコントロールできていたかどうかは分かりませんが、その本能を理解し利用しようとしていたのは確実です。
(その真意となると、修羅→悪意ある崩壊&再生ということなのか、善意からの人類の更生なのかまでは推測できませんが…。)
これはゴジラ上陸後の被害者の描写が一切ないことなどから分かります。
私は見に行った時、なんだ…グロシーンはないのか…ってちょっとがっかりしたのですが、
帰宅後、このブログで「シンゴジラは人間を取り込んで進化を続けている説」を拝見して確信に至りました。
・牧教授の船にて、なぜか靴だけがきちんと揃えて置いてある。本人の姿はない。
・上陸後の被害者が、本来なら建物の倒壊によって圧死するはずなのに、そのグロ描写が一切ない。
・倒壊地域の描写でも、被害者の遺体がないのになぜか靴だけ落ちているシーンがある。(ごめんなさい、一度しか見てないので本当に遺体がなかったか検証できてないです。)
・なぜ都心を目指すのか。
・遺伝情報の多さが、従来の生物を超越している。
・結局「好きにした」とは何をしたことかが分からない。
・エンディング、尻尾から見える謎の人型描写。
・世界各国へ飛来するという発言がなぜ出るのかが不明確(その時点で1個体でしかなかったシンゴジラから、どうすればそこへ発想が飛躍できるのかが不明瞭)。
これらの疑問が、たった1つの「人間を吸収している」という説で全てすんなり説明できてしまうのは驚愕でした。
なぜ牧教授の船の上では、律儀に靴が揃えてあったのでしょう?
もし海へ逃げるのであれば、船の淵にあるはずだし。
もしゴジラに意図せず巻き込まれたのであれば靴等全て荒れていたはずですし。
つまり、あの律儀な靴揃えは、牧教授の「これからシンゴジラに吸収されにいきます」という意思表示だと思われます。(その遺書としての役割が、“折り鶴”に込められた妻への愛であったり、“春と修羅”に込められた亡くなったものへの苦悩と憤り、ひいては人間という領域を超えて神:シンゴジラへと同化するという修羅の道なのだと個人的には考えています。)
その真意までは善意か悪意かなどまでは、邪推の域を出ませんが、
少なくとも、好きにするということの方向性は劇中で提示されていたと考えられます。
すなわち、自らも吸収されることで、「シンゴジラの進化過程に貢献する」ということです。
また、
・上陸後の被害者は全て吸収されたから、どこにもグロ描写はない。
・遺体は吸収された後なので、靴だけが転がっている。
・東京は人口密度1位。遺伝情報がわんさか。うがった見方をすれば、震災から関東圏の人間は放射性物質を溜め込んでしまっているという邪推/俗説から、その溜め込まれた放射性物質をも餌場として認識した。
・魚類からの進化、両生類、爬虫類ときて、なぜ最後に人間なのかというと、遺伝情報に組み込み続けたのが人類なので。
・遺伝情報が多いのは、遺伝情報を取り込めるという能力の示唆。
・「好きにした」は、「靴を揃える」という意図の中に、その意思の方向性が暗示されている。
・ラストの人型は、取り込んだ人間を使った第5形態。
・飛来するというのは、第5形態を最後に出すだけでは説得力が薄いので、不自然ではあっても作中なるべく早く喋らせてリードしたかった。
またこのリードの手法は、折り鶴とも共通します。牧教授の残した暗号を「紙に書いてるから」というだけで「あっ!折り鶴か!」では説得力がないので、印象に残りやすい冒頭に折り鶴を早く出しておく必要があった。
こうすることで、「折り鶴で遺伝子理論」も、「尻尾の人型で第5形態理論」も、作者側からリードすることができる。
全部綺麗に説明がつくんですよね……たった1つの仮説から。
凄いと思いました。
簡易的な考察で申し訳ないのですが
牧教授の名をローマ字にしMAKIと表記しKとMをひっくり返すとKAMI(神)になり、これはアナグラムなのでは…と考えました。
タイトルは神・ゴジラとも読めますし牧教授はゴジラ0形態と融合して畏怖の対象となる神になったのかもしれない…など…深読みしすぎでしょうかね笑
コメントありがとうございます。
全然気付きませんでした、たしかにKAMIになりますね。びっくりです。
それが本当であれば、題名が”神”ゴジラである事のヒントかもしれませんね。
神をテーマにしてるエヴァも「シン・エヴァンゲリオン劇場版~」を題名に使ってるので、シンはやはり神なのかもしれません。
ちなみに、私は『ゴジラ1984』で牧吾郎というキャラクターが登場していたので、これのオマージュかと思っていました。
はじめまして。シン・ゴジラ劇中に出てきた「春と修羅」の解釈が気になりこちらに行き着きました。
とても興味深い考察だと思います。
牧教授の容姿は劇中でもオマージュがあった岡本喜八監督の写真ですし、ゴジラ映画ではよく出てくる名前なので、「人間としての牧教授」は重要ではないという事だと思いました。死んでいるかゴジラになったかは不明ですが、少なくとも牧教授の人間の身体は消滅しており、ただ心だけが終始様々な形で関与していると。ゴジラもその一つでしょう。
牧教授は「春と修羅」に感化されたのなら、何故メッセージに引用しないのか、本だけを置いておくのか疑問でしたが、劇中(折り鶴の件で)紙である事が重要と明かされたので、「春と修羅」も同じく本という形なのが重要だと解釈しました。
宮沢賢治が何を思い何を感じたのか、紙に執筆し出版して広める事で読者に伝わり共感を得ています。ただ当たり前ですが、外側だけだとタイトルが書かれたカバーしか見えません。手に取って読もうと思わなければ「本」以上のものにはならない。ゴジラも同じで、そのものは現象でしかないが、向き合って理解する事で初めて内なる声が聞こえる。
ただし確率はとても低く、千羽鶴が祈りの象徴であれば、一羽単独の鶴に込められた希望は千分の一という事になります。劇中の経緯を見れば、あの答えに辿り着ける(上に実行できる)人間が相当限られている事が分かります。日本政府の、総理かそれに近い人間が持てる全てを結集して、全てを投げ出す覚悟をしなければできなかった。
牧教授は恐らく人類滅亡か、核による日本弱体化を狙うほどの強い絶望と同時に、妻を奪った張本人である日本政府が自分の声に気付いてくれる僅かな可能性に賭け、ゴジラという神に采配を委ねた…という事だと思います。
(余談ですが、ゴジラが放射火炎を吐く時のBGM「Who will know」の歌詞が牧教授の心情を表しているようです。翻訳・解釈は色んな人が既にされているので、検索されてみるのをお勧めします)
矢口が「牧元教授は人類を試すためにゴジラを開放した」と推測した時、カヨコは「あなたに、好きにしてみろと」と限定的に答えています。確かに矢口は巨災対の責任者ですが、何故カヨコは牧教授が矢口に期待しているかのように言うのか。(単にカヨコ個人の好意からかもしれませんが)それはゴジラと向き合って牧教授の「声」に辿り着いたのが矢口一人だったから。志村がジャーナリストに調べさせて、牧教授の持つ恨みについて突き止めてますが、本当にそれだけならヒント自体残さないはず。
矢口は政治家になった理由を「政界は敵か味方かはっきりしてるから性に合ってる」と答えていますが、牧教授に対しては(ゴジラをけしかけただろうと気付いた後でも)敵として見ていない節があります。熱核攻撃に反対するため、なりふり構わずヤシオリ作戦まで漕ぎ付けたのも、自ら急性被爆の危険がある現場指揮に赴いたのも、国家と国民を守るのはもちろんですが教授の「声」に応えたいという気持ちも大きかったんじゃないでしょうか。
赤坂からすれば、それが夢とか理想に映ってしまうでしょうが…
ラストシーンの解釈ですが、尻尾の人型はあれ以上動かない、止まっていると見ました。
凍結直後には出現していませんでしたが、既に尻尾の中である程度進化が進んでいた可能性がありますし、凍結後に尻尾部分だけ分裂しようとしても体内原子炉が止まっているので進化するためのエネルギーが足りず、分離する前に力尽きたのではないでしょうか。
もちろんこれから動き出す可能性はありますし、だからこそ矢口は核投下を中止ではなく停止として受け入れた訳で。(今も動いているなら、問答無用で核を落とされているはず)
現状としては「課題はまだ山積みだし今後も向き合わなきゃいけないが、少なくとも牧教授のメッセージには答えられた」というところだと思います。
コメントありがとうございます。
私の考え付かなかった部分まで掘り下げており、大変興味深かったです。
「Who will know」の歌詞をもう一度見てみました。牧教授を示してるかorゴジラ示しているかで迷いましたが、やっぱりこの曲は牧教授を示している気がします。(もしくは牧教授+ゴジラ)
「私が纏うのは虚無 吐息が続く限り(I wear a void As long as breath comes from my mouth)」の部分が特に気になりした。牧教授はゴジラを生み出しあの火の海のような本来ありえない虚無の災害を生み出し(自分が虚無の災害そのものになり)、人類側にそれをどうすうかを投げかけた様に思えます。
この記事の考察では、私はどちらに転んでも絶望の様な考察をしてしましたが、そうではなくやはり希望と絶望の2択だったのかもしれませんね。歌詞にも「一縷の望みはまだある(I may yet stand the slightest chance)」とありあすし。この”一縷の”が、おっしゃられているように、1000羽ではなくたった1羽の鶴にも掛かっているのかもしれません。
最後の尻尾のシーンについては、改めて考えてむると、たしかに止まってる気もします。もし現在進行形を示したいなら少しでも動いている様子を映しますもんね。完全に静止した描写でしたし。(昆虫の脱皮のように長い時間をかけてじわじわ分裂する可能性もありますが、時間を長くかければ気付かれて核攻撃ですし)
劇中で示唆されていた第5形態の話の回収と、おっしゃる様に課題が山積みである事のメッセージかもしれません。
しかし一方で、中盤で牧教授の話をした後尻尾のアップになりカチッ割れるシーンを入れ、ラストであの尻尾の分裂シーンを持ってくるという事は、映画の演出としては現在進行形を意味しているとも取れます。
体内原子炉については、おそらくあの第5形態も個別に体内原子炉を持っているのでないでしょうか。本体(第4形態)の体内に残った凍った血液の水分を取り込み、自分の原子炉で核エネルギーに変換していたのではないかと。空気については凍結状態ですと上手く外部から取りこめない気がするので、もしかしたら空気に釣られて外に出てきた部分もあるのかもしれません。
本日シンゴジラを見に行き、他の方はどのような感想を抱いたのだろうという疑問から此処に辿り着いた者です。見終えた後にふと思った事なのですが、牧教授のクルーザーが残された最初のシーンの状況が、芹沢博士によって作られたオキシジェンデストロイヤーを使用し、ボートの真下に居るゴジラを溶解させた時のシーンと似ているのではないか、と。
芹沢博士が悪用されぬようにゴジラと共に海底で死んだ時の状況と似ているように思えます。
オキシジェンデストロイヤーは芹沢博士が研究途中の過程で得てしまった副産物です。そして、今回のシンゴジラでの決定打と成り得る血液凝固剤と共に使用されたゴジラの細胞膜を抑制する極限環境微生物の分子構造データもまた、牧教授が研究していた放射能の研究の過程で得た副産物と考えられないでしょうか。牧教授はゴジラを抑制するための副産物を得たからこそ、これを逆にゴジラと言う生物を活性化させるために使えないかと言う発想を得たのではないでしょうか。
ゴジラを殺すために使った芹沢博士、ゴジラを生み出すために使ったであろう牧教授。
ゴジラシリーズに対するリスペクトとして、
同じ過程で得た(副産物として得た)物を、
相反する結果(死・生)で用いられた、
のではないかと思います。
それにより「私は好きにした、君たちも好きにしろ」と言う牧教授の台詞は、放射能研究の過程で得たこの副産物の使い道についてだったのではないかと思います。また、クルーザーの中に靴が整えて置かれていた描写があったので、牧教授は自殺する際の遺書として残したのだろうと考えられます。
また、尻尾の人骨の考察ですが、芹沢博士が死んだのも東京湾海底なんですよね……。なので、芹沢博士と牧教授二人の遺骨を表しているのではないかと思った次第です。
コメントありがとうございます。
とても面白い着眼点の考察ですね、興味深く読まさせて頂きました。
たしかに今回の牧教授は、芹沢博士をオマージュしたところがいくつかみられます。冒頭の東京湾については、何故東京湾でなければいけなかったのか未だによく分かりません。もしかしたらあの辺も芹沢博士を意識したものなのかもしれません。ゴジラが散った場所でゴジラを生み出す的な。
おっしゃるとおり、牧教授はゴジラの生態とゴジラの抑止方法の両方を抑えたからこそ、好きにする事を思いついたのかもしれませんね。もしかしたら水と空気をエネルギーにかえ、放射能を半減する力をも持つゴジラ細胞はアメリカなど諸外国も狙っており、抑止方法を発見したからこそ悪用される前に人前に公開したのかもしれません。その後どうするかは「私は好きにした、君たちも好きにしろ」と。
もし芹沢博士をリスペクトしたものであれば、牧教授はこの記事で書いた自身の私情で修羅におちる破滅的な人物ではなく、芹沢博士のように大志を抱き何かをしようとしていたのかもしれません。その方が原点回帰としても綺麗ですよね。
最後のシーンは、同じような方向で考えると「あのゴジラが最後の一匹だったとは思えない」へのオマージュだとも考えられそうです。
何故東京湾だったのか、と言う点ですが1954年の初代ゴジラをリスペクトしているからでは無いでしょうか。
大戸島西方沖に居た初代ゴジラは爆雷により日本から攻撃を受け、その後東京湾から現れ品川運転所付近を襲ってまた東京湾に戻り、そして二度目の上陸で防衛線を超えたゴジラは熱線を吐いて国会議事堂などを燃やし尽くして再び東京湾に戻り、三度目の上陸の前にオキシジェンデストロイヤーで溶解され東京湾海底で朽ちます。シンゴジラでも二度上陸し熱線を吐き首都を焼くところまでは同じですが、その後は過程は違うものの人間の生み出したものによって倒されています。
こうして並べてみると非情に酷似している点が多く感じられますね。
……もしかすると、あのゴジラが最後の一匹だったとは思えない、の台詞を現実にした結果なのかもしれません。東京湾海底でゴジラ(初代)が朽ちた場所から新たなゴジラ(シン)が生まれる。非常に浪漫のあるリスペクトではないでしょうか。
案外、春と修羅の意味は「春=妻」「修羅=研究」と言うド直球なものかもしれませんね。
芹沢博士が戦争で片目を失ってから婚約を破棄して研究にのめり込んでいたと言う点から、牧教授も戦争(核)で妻を失ってから研究にのめり込むと言う過程もまた初代オマージュに感じます。その後、牧教授は米国での研究施設でゴジラを見つけた事で放射能問題に対する一つの答え(ゴジラ)を得てしまいます。
妻を失わせた放射能(核)を持つ米国に渡しては軍事利用されるだけ、それならばとデータを潰してしまい、秘密裡に研究資料を持ち去って姿を眩ました。これは芹沢博士がオキシジェンデストロイヤーの資料を焼き払い個人で研究していた姿を彷彿させますね。
その後、ゴジラの元素変換機能を阻害する極限環境微生物の分子式(wikipedia抜粋)を解読した牧教授は東京湾海底のゴジラ幼生体に対し、潜水によるアプローチによって活性化を促してこの世を去る。元から死ぬ気だった、クルーザーに靴を並べて置く意味はそれしか思えません。ゴジラと言う放射能問題に対する自身の訴えを米国に隠される前に世界に公表するため、ゴジラに進化のきっかけを与えたのではないでしょうか。あくまで牧教授はゴジラの存在が世界的に公表されれば良かった、そのためクルーザーに分子式の紙とヒントとして折り紙を置き、妻への想いを込めた春と放射能研究との闘いを表す修羅を題名とする宮沢賢治の「春と修羅」を遺書代わりに置いたのではないでしょうか。
返信ありがとうございます。
うんうんと頷いてしまいました。芹沢博士との共通点はかなり多そうですね。今回のシン・ゴジラは、監督自身も「初代ゴジラに少しでも近づけたい」と公式に述べていますし、そう考えると牧教授という人物は芹沢博士のオマージュや相対する意味を込められて作られたキャラクターなのかもしれません。
時代背景から考えても、初代ゴジラの頃は核兵器の黎明期。これから始まる核開発にメスを入れる存在として芹沢博士を描いたのかと思います。一方で今の時代は依然として核開発は留まらずむしろエスカレートし、他国をリードするためには手段を選ばない技術競争の時代。そんな核兵器の行き過ぎた国際競争はいずれあらたな脅威(ゴジラ)を生み出してしまう、そんな意味を牧教授という存在に込めたのかもしれません。
教授の生死についてはどうなのでしょうか。クルーザーの靴を並べたのは、米国から身を隠すための工作とも取れます。そもそも「Who will know」の歌詞などを考えると牧教授はやはりゴジラに取り込まれてしまった様にも考えられます。
まきごろう教授って劇中に漢字表記されてましたっけ?
もし表記されていなければ、マキは「槇」かもしれません。
だとすると、槇はシンとも読めますので、槇ゴジラ、シンゴジラ。
しかも劇中ではゴジラとしか呼称されていませんから、タイトルの「シン」は真相を知っている人によって命名されているわけで、このタイトルにこそ何かが籠められていると考えるべきでしょうね。
コメントありがとうございます。
劇中では表記されていなかった記憶ですが、シンゴジラwikiでは「牧 悟郎」となっていますね。
1984年公開の『ゴジラ(1984年)』にて「牧 吾郎」という同姓同名の人物が登場しており、おそらく本作の「牧 悟郎」はこの「牧 吾郎」から取ってきたものかと思います。
なおこの1984年の「牧 吾郎」はトレンディな新聞記者で、今回の教授とは全く関連性の無いキャラクターです。まきごろうという名前もそういった遊び心でつけてしまうほど牧教授というキャラクターには特別大きな意味は無く、記事でも書いたとおりあくまで概念として捉えて欲しいという意味があったのかもしれません。
シンゴジラをあえて怪獣映画として読み解くなら ウルトラマン 棲星怪獣:ジャミラ 第23話「故郷は地球」とえりまき怪獣:ジラース 第10話「謎の恐竜基地」ではないでしょうか。参考まで
Syumi様のご考察で
>取り込まれた人間達の遺伝子がシンゴジラになんらかの影響を与え、シンゴジラがラスト
>シーンで人間に近い生物に変化しようとしたのではないでしょうか。
とのご指摘、私も賛成なのですが…「他生物と合体して特性を取り込み、より強くなるタイプの種族」と戦うために、わざわざその種族と合体して誕生するヒーローのマンガがございましたよね。
>「牧教授は妻の病状を回復させられず、その怒りや苦しさから修羅道に堕ち、政府へ恨み
>を晴らすこととした」と考えられます。
>最愛の妻が放射能で苦しみ死んでいく姿は、それほどまで牧教授を変えてしまったのかも
>しれません。
…もともと人類に対し深い懐疑と悲観を持っていた牧教授は、ある妄念を持っていたが、愛する妻がその犠牲となることを恐れ、実行できなかった。つまり彼の妻の存在こそ、なお彼をして人類の敵となることを躊躇わせ、裁定者の立場ではなく人類の側につかせる要であった、とは考えられないでしょうか。そしてその死は、彼を押しとどめる根拠の喪失だったと。
…で、例のマンガですが、主人公も人類に対して懐疑的になり、人類のために戦う理由が分からなくなってしまいます。けれど「愛する人が人間として生きている以上、彼女が生きられない世界にはしない」と改めて戦う意義を見出し、人類の側に立つ決意します。
が、皮肉にも、その決意の直後、彼女は人間たちによって殺され、彼はもう人類を守る根拠を失い、見限るとともに、世界の覇者となるのが自分たちか敵か、雌雄を決するための破滅的な最終戦争へとなだれ込み、人類は絶滅します。
(余談ですが、ヒロインを殺害したのは暴徒と化した近隣住民たちであり、よくよく考えれば、彼らは人間に戦いを挑む悪魔たちにおびえ「社会的な不満を抱えた人間などが突然変異で悪魔となる」という誤った認識により政府が先導する悪魔狩りを率先して実行した”だけ”であり、いわば”非常時に際し、政府に騙されて間違った認識を持ってしまった”被害者とも言えるのですが、裁定者たるヒーローは許してはくれませんでした。)
…悲劇のヒロインの名は「”牧”村美樹」です。
シン・ゴジラの下敷きの一つは実は「デビルマン」なのではないか、という根拠薄弱な我が珍説でございます。…お後がよろしいようで…
コメントありがとうございます。
「デビルマン」ですか!デビルマンはしっかりと観た事がなかったのでとても興味深く読ませて頂きました。たしかに構造として似てますね。庵野監督も年齢的にデビルマンの世代かと思いますので、感化された部分があるのかもしれません。やはりシンゴジラは牧教授の成れの果てなのでしょうか。
牧教授については私も色々考えましたが、妻が好きで守りたい、人間に懐疑や悲観をもっている・でも人間も守りたい(ゴジラの放射能無効化能力で)、純粋に科学や自身の研究を追及したい、こんな感情が入り乱れた人物なのかなと思っています。また、それらを上手くコントロールできない不器用な人間だったのではないかと。
それで、シンゴジラの劇中以前に何かが起こり、牧教授の心の中で何かが壊れてしまったのではないかと。牧教授もデビルマンと同じく何をしたかったのか、何をすべきかがわからなくなり極端な答えを求めてしまったのかもしれません。
こういう考え方もあったんですね!またシンゴジラ見たくなりました。
半減能力って本編に出てきましたっけ?(そもそもそんな言葉ありましたっけ?汗)
「半減」といえば…
細胞内の微生物が空気中の元素を新元素に変換(=人類への福音)
↓
新元素の半減期が数週間程度
↓
除染作業に光明が 見えたわーい
程度の解釈だと思ったんですが…。
間違ってたらすいません!
コメントありがとうございます。
放射能半減能力は、一瞬でしたが対策本部のシーンで触れられていたかと思います。
おしゃられているように、超細胞の力で周囲の放射能を急激に半減できると。
また「ゴジラVSデストロイア」でもゴジラが散りゆく間近に、周囲の放射能が急激に低下する現象を描いていたため、
東宝内でこういった設定を昔から作っていた可能性もありえそうです。
最後の尻尾の奴らがやがて巨人兵に進化して、風の谷のナウシカ、エヴァンゲリオンに繋がっていくのでは…。
巨人兵空飛べる、熱線レーザー吐ける。地球壊滅たやすい。ましてや、ゴジララストの尻尾の第5形態がゴジラの頭の先までいってそれが巨人兵になるとなればもう…。
第5形態はいわば放射線に耐性を持った人類であり、牧は核の無害化に成功した、といった説もあるようです。
裏設定的な感じて実はゴジラに核兵器を使用するととんでもないことが起きるのでは?と考えています。
牧教授はそのとんでもないことを想像し、人類に回避するチャンスを与え、そして、牧教授本人はとんでもないことを仕掛けた責任として蒸発したのではないかと睨んでいます。
コメントありがとうございます。
そう言った事も考えられそうですよね。私も監督が庵野さんなので、どうしてもとんでもない方向を疑ってしまいます。公にはしなくとも何かあるんじゃないかと。。
私は考察とかが好きではないのですが(大体が、僕の考えた最高のストーリー=とんでも論みたいなものに飛躍するから)
映画のストーリーや意味するところは気になりますよね
そういう意味で、サイト主さんの書かれてることは飛躍しすぎていない話なので特に問題もないのですが
庵野監督自身は、別に深い意味をもたせようとは思っていないと思いますね
ゴジラという人の作品ですし、普通に見たまま理解できる程度というか、作中で大体理解できる範囲に収めているように思います。
矢口(でしたっけ?主人公)が「教授の好きにしたとはどういう意味だったんだ?」というようなことを呟いた後に、ゴジラの尻尾がピシッ!っとなる場面が出て来るので、単純に尻尾が答えを示す=ラストシーンだと思います。
尻尾が人型&船上でいなくなったというところから、自分の身を使ってDNAを取り込ませたというのが分かるラストシーンですよね。
更に、なぜゴジラが上陸したのかも、その進化のためだったということを示唆する意味もあったラストだと思います。まぁここについては具体的になぜ東京だったのかとかは分からないので、こうして私は人の意見を見に来たのですが…
とりあえず、ここで止めてなければ、空を飛ぶ人型の危険な生き物が生まれてしまってましたよ という意味のあるラストだったとは思いますが、巨神兵うんぬんとかまだ生きてて続きがあるとか、そういう意味は含んでないと思いますね。それは蛇足っていうやつですわ。
とはいえ、色々なことが分かるラストではありますよね。
コメントありがとうございます。
庵野監督も余り考えず描いている作品もあるらしいので、もしかしたら深い意味などなく、おっしゃられるようなそのままの内容だったのかもしれませんね。ただそうなると、折り鶴や春と修羅、牧教授自体の存在を出しておいて放棄したことになるので、作品としては少々よろしくないのかなと。
出した以上は、何かしらの意味を込めていてもらいたいものです。
シンゴジラがなぜ東京に向かうかは未だに謎なのですが、以前本サイトに「背びれが生体レーダー(フェーズドアレイレーダー)の役割していて、電波密集地の東京に引き寄せれている」という解釈コメントを頂きました。私はこれが一番しっくりきています。今回のゴジラは劇中でも生物的な面が強く押し出されているため、何らかの意思や使命をもって東京に向かったのではないんじゃないかと思っています。単純に生物のレーダー本能で東京に引き寄せられていっただけなのかと。
もし牧教授がゴジラで何かをしようとしていたなら、ゴジラは操れないただの生物として考えた上で計画を進めたんじゃなかなとも思っております。
投稿から随分経っているのにコメントするのも気が引けますが……。
私なりの解釈です。
牧教授の奥方が放射性物質によって亡くなったというのが劇中でも出ていました。
そして牧教授は放射性物質研究の第一人者です。
放射能による被爆で亡くなるのは体内に摂取したケースに限られます。
原爆の放射能を直接浴びたなど余程の線量を浴びたなら別ですが、その場合はほぼ即死です。
原爆投下後の広島ですべての人が放射線障害になっていないのはそこが運命を別けたからです。
放射性物質を帯びた水や食べ物を摂取する事で体内に残留し、排除出来ない事から継続して放射能のダメージを受ける、それが一番の原因になります。
そして第一人者である牧教授がそれを知らないのはおかしい。
ここからは妄想交じりの推測です。
牧教授は線量低下の為に研究を重ねる中で自宅にも持ち込んで実験をしていたのではないでしょうか。
それによる事故で妻が被爆、しかし国の関与しない所の事故なので支援を得られずにむざむざを亡くしてしまった。
その中でゴジラ幼体を知り、研究を重ねる中でその進化特性と半減化能力、相反するような体内炉に気づいてしまった。
狂おしい程求めたものがそこにあり、もう遅い。
そしてその狂気は国に奉公したいがための研究だったのに支援しなかった恨みと変化した。
牧教授の研究はその時点でゴジラの特性を探るものになったでしょう、如何に進化するのか。
恐らくは0形態の幼体を所持し、後は自分を加えるだけの状態、そして自分を加えれば爆発的に進化が進行する状態まで知った上で東京湾へと赴いた。
何故か、彼の復讐を委託する為に、そしてその復讐の権化こそが福音である可能性も含ませる事で科学者としての矜持も込めた。
大事なものを失った牧というひとりの復讐鬼として「春と修羅」を。
研究者としての願いを込めて折り鶴を置いたのでしょう。
果たして彼の祈りは届いたのでしょうか。
それとも復讐は成ったのでしょうか。
核にまつわる全ての犠牲を昇華した存在である様に思えます。
もっとも、こうした解釈には否定的な自分もいます。
太陽とて核エネルギーですから。